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キャバーンの司会者が逝去


キャバーンの司会者、ボブ・ウーラー(Bob Wooler)が2月8日、ロイヤル・リバプール病院で亡くなった。76歳だった。彼は先月自宅で倒れて以来、この病院で治療を受けていた。
ボブは、ビートルズが世界で成功すると最初に予言したライターで、ポップ音楽に精通しており、ビートルズにアメリカの音楽をいち早く聴かせ、ビートルズはこれらの曲をキャバーンで演奏したという。
弁護士によると、彼は未婚で遺産を相続する人物がおらず、何百もあるといわれるボブ所有のビートルズゆかりの品々がどうなるかは、今のところ不明である。
また、ボブが書いたというリバプールのポップ音楽に関する本を探す作業が、現在行なわれている。彼はその本を生前に出版しないよう言っていた。ボブは、リバプールのルーツを取り巻く、ビートルズに関する虚実な話と誇張的表現に対しては、批判的だった。

ボブは、キャバーンのDJとなり、フリーの音楽ジャーナリストになる前、ガーストンの鉄道整備場で働いていた経歴を持っている。ビートルズが1960年にハンブルクから帰国後、ビートルズの最初の大きなギグを企画、1961年から1963年まで、およそ400回にわたり、キャバーン・クラブでビートルズのライブ・ショーの司会を務めた。また、ビートルズが1961年、マネージャーのブライアン・エプスタインと初めて会うときに、同行するようにジョン・レノンに頼まれたこともある。
一方、ポール・マッカートニーの21歳の誕生パーティーで、ジョン・レノンに顔を殴られたり、1963年、全国紙の見出しに登場したこともあった(ジョンとブライアン・エプスタインがホモセクシャルな関係にあるという疑惑について尋ねたせいと言われている)。 ボブの友人で、ビートルズのマネージャーだったアラン・ウィリアムズ(Allan Williams)は、「僕らには、浮き沈みがあった。しかし、僕たちは、長年の親友だった。ビートルズの世界的な名声を追い、だれもがロンドンへ行ったが、ボブはリバプールにとどまった」と語った。
ボブを1950年代から知っている音楽プロモーターのジョー・フラネリー(Joe Flannery)は、「彼はキャバーンの紳士だった。彼はだれからも愛されていた。ボブは、ビートルズの歴史の重要な一部であることで、儲けたことなど決してなかった。彼の名前はその歴史の中で、重要な一部として生き続けるだろう」と語った。 ビートルズ・ガイドのフィル・コッペル(Phil Coppell)は、「ボブは、ビートルズの信頼できるアドバイザーだ。ビートルズが初めてブライアン・エプスタインに会いに行ったとき、同行したのがボブだった。もしボブが、『彼を信用するな』というようなことを言っていたら、すべてが変わっていただろう。彼はウィットのある男で、ビートルズが信頼していたいい友だちだった」と語った。
マージービートのDJ、ビリー・バトラー(Billy Butler)は、「ボブは、スキッフル・グループとともにすべての誕生に立ちあった。彼は、キャバーンの伝説だ。ビートルズだけではなく、マージーサイドのすべてにとって」と語った。


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